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-CONCEPT- OLD記事

【銀座にベトコンがでた】  1967年毎日国際展出品

レフトフック展


 十二月、レフト・フック展の会場に二人の外人が入ってきた。 外人なれしているぼくらは、ブロークンな英語だが気軽に話しかける。 スイス生まれの室内装飾家だというひとりは、ぼくらがこの日本の素晴らしい伝統と遺産に恵まれながら、なぜ下品なアメリカのポップ・アートの真似をするのか。 たとえば建築家の丹下健三はヨーロッパの教養を身につけながらも日本的な建築美を誇っているではないかと口角泡をとばしてくってかかってきた。 たいていのヨーロピアンはポップをすごくきらう。  このマジメな青年もぼくには片腹痛かったが、ぼくらは日本人ではなく東京人、すなわちけばけばしい刺激とハイテンポで移り変わる流行、洗練された悪徳と冷え切った批評精神を持つ大都会人で、これはニューヨークをはじめ大都会でならどこでもこのような共通の感覚を持つものであり、その意味ではインターナショナルな大都会人というべきだろう。 誤解にみちあふれた伝統美術の教養には故意に目を閉じてきた、あなたはコモンセンスの持主で、ぼくも五年前にはあなたと同じ考えの一時期があったと言ってやった。
 いっぽう、ウリザネ顔の長身のヤンキーはすごくまじめな顔で、一点一点無言でノートに何やら記しながら会場を歩きまわっていた。 ニューヨークの近代美術館が主催する現代日本美術展の責任者ウイリアム・リーバーマンだった。

 

 

ニューヨーク画壇へ挑戦のチャンス


 ひっそりかんとした正月のマンションの一角がやけに騒々しい。  元旦の晴着と対照的にぼろぼろの仕事着、ぶしょうひげのむさくるしい三、四人の男たちが、寒空に開けっ放しのロビーを出たり入ったりしている。  目の色を変えてアートの制作に夢中の、ぼくと小島信明、それに正月のひまをもてあまし、ぞうにをほおばりながら、ひとはだ脱いで、助人役を買って出た友人の大西清自、石崎浩一郎、斉藤司郎の三人だ。
 昭和三十九年十二月、ぼくらの 「レフト・フック」展中に来日した痩身のアメリカ人が、アメリカ巡回現代日本美術展の選抜責任者として日本中のモダンアーティストを片っ端から訪問して歩いていた、ニューヨークの近代美術館キュレーター、ウイリアム・リーバーマンであり、こともあろうに、正月の二日に、成城にある友人田中信太郎のアトリエに新作を持ち寄って見せる約束ができ上がっているのだ。  彼のOKをとり、檜舞台アメリカでの作品発表の絶好のチャンス到来というわけだ。
 五年前のネオダダ運動蒸発以後、日本に見切りをつけ、国際舞台ニューヨークへ挑戦すべく、メンバーが幾人アメリカヘ去ったことだろう。  荒川修作、平岡弘子、その翌年、吉村益信、升沢金平、それを追うように豊島壮六、それに九州派の大将、桜井孝身。  そのたびに盛大な送別会が開かれ、ベロベロの二日酔いでの羽田見送り。  そのため周囲からは送り屋とからかわれる始末。 これでは東京に残ったぼくらのほうがかえって孤独になってしまう。
 渡米組は、行った最初は金髪の女がどうの、ハーレムだ、ヴィレッジだと景気のよい便りが二、三ヵ月続くが、後はなしのつぶてで、生きてんのか死んでんのか、ぜんぜん消息を絶つのがふつうだ。  実際に作品をものにし、どしどし発表しているのは、荒川、吉村ぐらいだった。  だからぼくらは逆に不なれなニューヨークより、東京で大作を用意し、チャンスを待ってるといった気持のところに、この話だ。  ハッスルするはずだ。
 莫大な予算で五十人あまりの日本作家のアートをアメリカ各地で公開し、一九六六年秋にニューヨークで大々的に展観されるこの企画は、これまでの外国偏重の日本美術界をいっきょに国際舞台に押し上げ、論議百出の日本美術の国際性という問題を、この展覧会の成否に賭けようという、まあ、多摩川でしごかれた二軍選手が、急に一軍に呼ばれ、チャンスにバッターボックスに立たされたようなものである。
 東京にいながらにして、いきなりニューヨークで勝負できるこの幸運、このチャンスに正月もくそもあるものか。  過去のポップ・アート系の全作品を成城に集めたぼくらは、バックミラーのないポンコツのルノーで、ホテル・オークラにリーバーマンを迎えに飛んだ。
 寒さにぶるぶる震えながらやって来た彼は、しかしものすごくきちょうめんな男だった。  作品の題名、素材、年代から作家の生まれは東京か、大阪か、までを克明に調べ、作品のひとつひとつのカラー写真を要求した。  ニューヨークでの最終選考のためらしい。  ぼくにはなんの確約も得られなかったが、彼の興味の示し方は大変で、決定したように思われた。  よし、わざわざニューヨークなどに無理して行かなくても、東京に居ながらにしてこれだけのチャンスが、今後もどんどんあるだろう。  こいつは春から縁起がいいというわけだ。



デュシャンの像



    デュシャンの像と涙の別れ

 成城のドブ川を、異様な色彩の大きなハリボテが見えかくれしながら流されて行く。  ぼくにとってなんとも胸にじんとくる光景だ。
 完成から今日までの半年間、人気を博した彼はなんと、カラーを含めて百枚もの写真をとられ、一流評論家から激賞され、アメリカにまで行きそうになった。  この奇蹟の大作 「思考するマルセル・デュシャンの像」 は、しかし、足で踏みつぶされ、かつがれ、猫の死体といっしょに悪臭のドブ川にたたき込まれ、いま、ぽっかりぽっかりと流されて行くではないか。  いかにぼくが前向きの姿勢を崩さず、過去の旧作にみれんを絶ち、新開地にいどむ作家だとしても、また、来日したリーバーマンを、作品のぜんぜん残らない前衛作家として驚かしたとしても、この 「マルセル」 のときはさすがのぼくもちょっとセンチな気持になった。
 首をぐるぐる回しながら草月ホールのラウシェンバーグ公開質問会に初登場して以来、度重なるお呼びで、ついに胸からへし折れ、雨ざらしのため、中の木がくさり出してしまったのだ。
 しかし、この 「思考するマルセル・デュシャンの像」 の名声は、その後写真をたずさえ渡米した東野芳明氏により本物のデュシャンと会見、決定的となった。そのユーモアに感激した翁は、二千ドルの賞金をシカゴの財閥コープレー財団よりぼくに支払うよう取り計らってくれたのだ。
まさにデュシャン様様だ。

 新橋内科画廊は、ことしも前衛の唯一のホームグラウンドらしく一月からはげしい作家たちの展覧会が目白押しにつまっていた。  大阪の女流新人、森内敬子の 「おみやげ」展の後、二週間を受持ったぼくの 「ハリボデボクシング」展の開会に、最悪のニュースが流れ込んだ。  アメリカ巡回現代日本美術展のメンバーにはずされてしまったのだ。  かっとなり、ハリボテ人形の首をとってへし折って床にたたきつけると、 酒だ! とさけび、酒屋にかけだして行った。  そこへ、再度来日中のリーバーマンから電話で、明日ホテル・オークラで会食したいとさそいがあった。  彼は非常にぼくを推してくれたらしいが、作品 (「思考するマルセル・デュシャンの像」) が破損しやすく、その保証の点などで、ついに駄目だった、日本でもっとも重要な作家だとぼくを慰めてくれた。  ぼくは出されたシナ料理がほとんどのどを通らなかった。

 

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