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-CONCEPT- OLD記事

 

前衛の道    -1968年6月20日 株式会社 美術出版社  発行-                         

著者    篠原有司男

 

 

 

 

 

 

ゴッホのような友人たち 

 「おれは死ぬんだ。おれは自殺するんだ。」 


 じめじめした梅雨の六月、東京上野の芸術大学油絵科教室には、十数倍の競争率の試験を乗り切り、幾多の先輩、後輩を蹴落し選ばれた、全国からの、よりすぐられたエリートたちが、禅寺のような静寂さの中で、黙々と裸婦のデッサンに挑んでいた。
 突然、イーゼルが倒れ、どたどたと靴音がしたと思うと、


 「おれはもう生きてはいられない。」


 とわめきながら、一人の学生が、窓際に向かって走り出した。 芸大油絵科の校舎は、奈良の法隆寺を思わせるような、明治生まれの木造建築である。 一年生のぼくらは二階の教室で、窓から落ちれば、手足は完全にへし折れてしまう高さだ。 入学の喜びから二カ月たらずで、まだぼやっとした頭脳の中に、最初に飛び込んで来た言葉が、この ”生きてはいられない” であるからたまらない。
だれ一人止めるどころか、あっけにとられている中をかき分けるようにして窓際に向かって進んで行く長髪の男を見送るばかりである。 

 

そのとき、 

「死ぬのなら勝手に死ね。」 

とどなった奴がいた。


 梅雨の合い間に、ギラッと見える、なまなましい真夏の青空が、不器用に窓枠に取り付いてばたばたしている寒いシルエットを、くっきり映し出していた。
 どなった奴はぼくの横にいた。  この騒ぎに、平然と木炭を右手にデッサンを続けながら。  ぼくは夢中で窓際の男に飛びついていた。
 これを機会に、その後、この飛びそこなった男、張替真弘とぼくは親友になった。  張替はゴッホに全く傾倒していたのである。  銀座の本屋に、ゴッホの複製を見に行ったとき、彼は、耳を切り落し頭に包帯したゴッホの自画像をみつめて動かず、一時問以上その複製の掛けてあるウィンドウから離れなかった。  そしてぼくに言った。


 「ゴッホの気持が全部わかってしまった。」


彼、張替が、巷のいわゆる  ″ゴッホ″  ファンと違っていた点は、ここなのだ。  芸大の学友にも  ″ゴッホ″ ファンはむろん非常に多かった。  ただし、彼らは、後期印象派の立役者として、また色彩を解放した輝かしい自由の旗手ゴッホとしてである。  張替はゴッホの凄惨な内的生活に自分との共通点を見出し、まるでゴッホが乗り移ったかのように行動したのである。  ゴッホには弟のテオという後援者がいて、南仏アルルの太陽に迫ったが、張替は二坪ぐらいのアパートで母、姉、弟の寝ている枕もとで、小さなカンバスに挑んだ。  興奮のあまり、姉にパレットナイフを振りかざし、裸足で夜中ぼくの家に飛び込んで来たこともあった。
 その後、彼は隅田川に飛び込み、ボート池のおやじに助けられるという一幕を残して、フランスに去った。

 


 

 


 



少年時代の前衛画家

 

「麹町区、二番町、五番地、ニです。」  ぼくは、六尺豊かな大男の先生を前にして、小声で下を向きながらつぶやいた。
小学校二年生の新学期、当時(昭和十二年)創立百年におよばんとする東京第一の名門校、番町小学校、二年松組、篠原牛男 (本名)すなはち、ぼくは、今のテレビッ子に較べれば全然うぶで自分の住所すら、よくおぼえていない始末なのだ。  一人一人先生の前に呼び出されて聞かれている。
わからない奴は、一ぱつ、グローブ大の平手打ちを喰わされる、それも男女の区別なくすぐ自宅まで走って聞きにやらされる。  だんだんぼくの番が近づいて来た。  隣の席の奴に聞いたら、ぼくの住所は、麹町区、二番町らしいとそこまで判った。その時呼ばれて先生の前に立ったらすらすらと出鱈目の住所が、ぼくの口からすべり出した。


 「麹町区、二番町、五の二です。」


 先生は、名簿に書き込んでいる。


 「よし。」


 といわれて席にもどったが、後から考えるとぞっとする。  ずばり正解だったのだ。

 

 

 


 

野原でモスキートに血を吸われる女

2003年

200cm×220cm

ガッシュ・アクリル・カラーテープ・金箔

 

 

 

 

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