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-CONCEPT- OLD記事

 篠原有司男の底力 4

美術手帳 1995年10月号 掲載

感動のセールスマン        


    オートパイ彫刻はどういうふうにでてきたんですか。

篠原 …… これは窮余の一策というか、行ってすぐでカネがぜんぜんなくて、絵具屋へ行っても高くて買えないから、手ぶらで帰ってくるわけ。 うちの前に来たら、ダンボールの箱を折り畳んだのが山積みに捨ててあって、こいつがなんとかならないかと思って、こま切れにして、つくりはじめたのよ。 それで、タカでもワシでもなんでもよかったんだけど、オートバイをちょこちょこつくっているうちに、見に来たやつが 「すげえ」 といいだしたわけ。 友だちがあんまりほめるから、自信をもってどんどんつくりだしたわけ。 つくっている側は自分の想像以上のものはできないんだから、あとは他力本願で投げ出すしかないわけ。  (関連リンク 他力本願アート

 ぼくは、芸大のころからはじめた 「手探り前衛」 なわけで、自分の感覚と動物的な本能と嗅覚だけでもって前進するんだよ。 ぼくは 「ニューヨークはジャングルだ」 といつもいうんだけど、ほんとうにジャングルなんで、理性とか方法とか地図とか磁石とかより、自分の感覚と嗅覚のほうが大事なわけ。 目なんか見えなくたって平気なわけ。 あぶないところがあったら後ろ向きになって帰ってくるとか、そのぐらいに本能的なものが強い街なんだ。 そこでオートバイ彫刻ができたんだと思うね。 それでぼくにはいままで積み重ねてきた経験、スキルフルな腕、モノをひねってつくる芸術性がもう備わっちゃっているんだよ。 だから、芸術性をうんぬんするより、ぼくの体質をうんぬんしたほうが早いのであって……。

 

オートバイシリーズ
 一年間の奨学金も切れて、眼前に広がる恐怖のニューヨーク。 何事も一からスタートだ。 ロフトの前の路に捨てられていた、山積みのタンポールをオートバイ彫刻に仕上げ、発表が続く。 太陽が激しく照りつけるなか、雪を巻き込み悲鳴をあげて吹きまくる寒風のなか。 パワーが彫刻から滲み出ているようだ。

リンク・モーターサイクル・彫刻作品集

 

モーターサイクル ・ アイスクリーム クイーン


       
    そう思います。 たぶん、篠原さんには、本能的に手でなにかをつくっていく楽しみとか喜びがあると思うんです。 だから、逆にいえば、つくるものはなんでもいいような気がします。

    篠原 …… うん、なんでもいいような気がする。 そこのところにとうとう到達しちゃったみたい。 バミューダ島なんていう、気持ちの悪いような平和な島に行って、絵を描きまくって感激したバカというのは、ぼくぐらいしかいないと思うんだねえ。 絵になるわけがないんだから。 あの島はぜんぜん芸術的じゃないんだから。 ぼくの人間性、虫とか魚とかセミの脱け殻とかを見てキーキー騒ぐ幼児性、知恵遅れの人間みたいな感動の仕方が、逆に  「オートバイ彫刻」 という変な、幼児退行みたいな発想になっていくんじゃないかと思う。

 そのことがだんだん自分の自信になってくると、このあいだ、北九州の彫刻シンポジウムで フランク・ステラ と 母里聖徳 とぼくで公開討論会みたいなものをやったときに、その場でひらめいたんだけど、 「ぼくは感動のセールスマンだ」 といっちゃったわけ。

フランク・ステラ、母里聖徳と、北九州美術館にて  四宮祐次撮影

 「感動のセールスマン」 というのはおもしろいなと思ってね。 自分は感動的な人間だけれども、ほとんどの人はそれほど感動的な人間じゃないわけ。 その場合に 「造形美術」 というもので、つくってみんなに与える 売りまくる のがぼくなのかなと思って、そういう言葉をいったんだけど、そういう自信がニューヨークでもだんだんできてきたわけ。 日本の伝統的な 「鳥獣戯画」 とか 「源氏物語絵巻」 とか、それから 『少年マガジン』 とか 『少年ジャンプ』 とかにある漫画でも、ぼくは感動した場合は自分にとってはすばらしい、芸術的な感動だと思っているわけ。 だからあえて 「芸術的な感動でございますよ」 という西洋美術とかアメリカのポップ・アートとか、そのほかの 「つくられた感動美術」 じゃない、自分自身の感動があるから、人にないそういうものを造形化して人に見せることになっているような気がするね。

 もうひとつ、美術館に置くものをつくるという、ものすごく古いシステム、絵描きとディーラーと美術舘という馴れ合い的なものがあるんだけど、これをぼくは逆に大切にしようとしているわけ。 というのは、アイディアとか観念だけでもってやった行為が、 「永遠の真理」 でもないけれどもどこかに転がってくれて、少しでも長く残って、いつも発信しているようなものをつくりたいわけ。

 防空壕生活から、焼け跡からのし上がってきたぼくにとって、転んでもタダでは起きないというハングリー精神、生きざまというのはいまでも同じなの。 お金を落っことしたら、お金を落っことした事件がそのまま自分の小説のネタになるぐらいにならないと、自分の作品は豊かになっていかないと思うわけ。 だから、どっかから飛んできたヒマワリの種がうちで芽を出したら、こいつはめっけもの、といってすぐデッサンしたり、その種をたくさん干して彫刻の材料に使ったり、虎屋の羊羹をもらったときには、竹の皮を全部取っておいて、作品に使ったりする。

 種村季弘さんというドイツ文学者がぼくの作品を評して 「こすれている」 といったんだよ。 「こすれている」 というのは、いい換えると 「ガツガツしている」。 種村さんは昭和七年生まれで、ぼくと同い年で、とくにアメリカの麻薬患者とかホームレスとか地下鉄の暴力とかいうなかで、ぼくの作品を見ると、こすれているというんだ。 「こすれている」 というのは種村一流の表現で、いい意味なんだよ。 「どぎつい」 とか 「したたかだ」 とかいう意味があるわけ。

    それはなにかとこすれ合って生まれてくるようなものなんでしょうね。


篠原 …… そう。 肌の触れ合いみたいな感じでね。 だから、いい表現だなと思った。

 

 

 


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