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-CONCEPT- OLD記事

アリゾナの岡本太郎 部分

  他力本願アート

現在、10月にオープンした川崎市岡本太郎美術館 2000年4月の特別展万歳七唱 岡本太郎の鬼子たち-Homage to Taro   Okamoto from seven artists 」 展のため、「アリゾナの岡本太郎」正式名「野外制作中の岡本太郎 アリゾナの朝日からバミューダの夕日」制作中である。横7mの大作。

 そもそもぼくを一躍有名にした「モヒカン刈」や「ロカビリー画家」の発想もつきつめれば太郎の著書「今日の芸術」が大いに刺激剤になっている。作品を自信満々で発表し、一片の反省・迷いの無い太郎の姿勢もすばらしい。

 当時-1958年-友人のソバ屋の二階で、5円のカミソリでそり上げたモヒカン刈の自分の顔を見た時『よし、これを芸術に仕立てなければ』と、絵具を散らしたシャツを着ると新聞・週刊誌に売り込みに走った。今思うと、これは[新しいアート]の創造よりも[新しいアーティスト]のスタイルを創造したことになる。

 それ以前にもこんなことがあった。二科展出品のため制作したゴミ彫刻(使用した素材が空缶、針金、竹、下駄、ケント紙等 )が落選は無論だが週刊誌のグラビアに-美しい裸婦像に囲まれて異色彫刻-と載り、マスコミの力に大いに勇気づけられた経験があった。

 或日、毎日グラフ誌が「同世代ルポ」と題し、大江健三郎を伴い、我が家をたずねた。君のアトリエは?作品は?と詰問され、それではとアパートの境のコンクリートの塀にケント紙をはり、シャツを脱いで手に巻きつけ墨汁の入ったバケツに突込むと、ケント紙にパンチを浴びせて行った。有名なボクシングペインティングの誕生である。だが当時は、大江を含め一行の誰もこれをアートだとは思わなかった。やったぼく自身もである。しかし、黒々とスミの飛び散った、破れたケント紙の迫力はすばらしい写真効果を発揮、それ以後、何度も我が野外アトリエの訪問客に披露することになり、世界的に有名なカメラマン、ウイリアム・クライン氏の代表作に選ばれている。

 しかしそれ以後、ボクシングペインティングが日の目を見るには、30年間たたねばならないのだ。

 1991年大阪国立国際美術館、「芸術と日常」展のオープニングで、15mの衝立にニューヨークから送った綿キャンパスを張ると、本物のグローブにさらにフォームラバーを巻き、充分墨汁をしみ込ませ爆発した。炸裂する真黒な墨汁の飛沫にあがる歓声。このビデオが「アクション行為が芸術となる時」と題した巡回展に出品され、オーストリアのウィーン、MAK美術館東京木場の現代美術館中庭で公開実演され、一気に人々の知るところとなったのである。

 ボクシングペインティングから、ぼくはこんな哲学を引き出している。

 見る側(観賞者)と作る側(アーティスト)の間には基本的違いがある。

 アーティストとは、例えば真暗やみの洞窟を手探りでダイヤモンドを見つけようとしているようだ。

 掴んだものが、ダイヤか、コーモリのくそか、実際にアーティスト自身も正確に自分が何をやっているか解らないのだ。アーティストは制作した作品に純粋に客観性は保てないはずだ。ならば自分に責任を持てる部分が半分とすれば、あとは他力本願を頼るしかない。

 他力本願とは、ぼくにとっては他者、観賞者、美術マスコミである。情報時代の今日、他者はしろうとではない。むしろアーティストよりも目のこえた経験豊富な人たちである。かつて読売アンデパンダン展に出品した彫刻を、評論家の瀧口修造氏に「これは悪い彫刻だ」と批判された。これはぼくの作品を一つの例としてアンデパンダン展全体の一種異様なエネルギーの空廻りを指摘したのだったが、ぼくのこの悪い彫刻の題名が「こうなったらやけくそだ!」である。

 もう一つの哲学は、出来上がった作品を見返さない反省しないと言うことだ。

 ボクシングペインティングは右から始まって左端、キャンパスの終った時点で終る。10mでも2分半、考え込んだり画面構成だの色のバランスは無視され、本人もスミの飛沫で目がよく開けられないのだから。だから完成した作品の良し悪しは無く、画面の完成度もない、行為が残されるだけなのだ。この方法論をぼくは現在続けている写実画にも適用しているのである。

 「アリゾナの岡本太郎」はこの哲学を押し進めたものだ。横7mの大作を一週間の期限つきでスタートした、蛍光塗料を大量に使用し中心は太郎が制作中。左半分は夜で、大きな縄文土器の中から墓場の鬼太郎一族の亡霊が踊りだす妖怪パーティーシーン。右半分は兔と蛙の餅つき、のびた餅が蛇に変わり暴れ出すと云った豊富な色彩とスピード感あふれる筆力が見せ場を作るはづだ。これらがぼくの大好きな島、バーミューダ島を舞台にくりひろげられるのだ。なぜバーミューダにこだわるのかをちょっと説明させてもらをう。

 バーミューダー高気圧に囲まれたこの小島に失恋の女流画家、ジョージャ・オキーフも静養に訪れた。バナナの花を男根に見立てたデッサンが数枚ある。しかしぼくはギリシャ彫刻の傑作、ラオコーンの像をバナナ畠に投げ込んで見る。大蛇に襲われのたうつ親子三人の像と極端に違うピンクのバナナの花。目に染みるライトグリーンの葉。この想像を絶したコントラストのはげしさ、たちまちぼくに創作意欲をかき立ててくれる。

 バーミューダ島の植物は鮮度が高い。サボテン、ハイビスカス、紺碧の珊瑚海、海の色に映える小さな白い屋根。寝ころがると海からのオゾンが足の裏から入り頭へ抜けるようだ。この島にぼくはビンセント・バンゴッホをお連れしたことがある。パリの郊外、オーヴェールの麦畑で腹にピストルの弾をぶち込んで36歳で倒れた彼だ。

 もし本当だとしたら、数々の傑作をものにしただろう。南海の豪華な夕日、足元をうろつく熱帯魚、サボテン、麦藁帽にローソクを立て、彼は椰子の葉影から南十字星を描いたかも。

 絵を描くって何ん何んだ!とにかく制作しようとキャンパスを立て絵筆を取る。さて、何をテーマにしようか、と考えて見てもこれと言った自分を強く引きつける主題が見つからない。とにかく一本線を引いてみた。これではあまりにも抽象的だ。何本も引くが誰かの絵に似ているではないか、しからばと消して顔を描いてみる。駄目だ。人物などすでに描きつくされ新鮮味がない。もう一度消して真白なキャンパスだけにしてみる。これの方がよっぽどいい。だがこれもどこかの美術館で見たことがある。それよりこの白い木枠に張ったキャンパスと云う布切れは一体何んなんだ。それに筆も、赤い絵具と青ではどこが違うんだ、と云う疑問が沸き上り出したら大変だ。どんどん逆登り、初原的な疑問が生じてくる。絵具屋まで何んで買いに行ったんだろうから、とうとう俺は一体アーティストなのか、アーティストって一体何ん何んだとなってしまう。しかし実はアートはこの疑問から出発しなければならないし一生つきまとうものなのだ。

 基本に戻してアートを考え直して見た時、ぼくは、パイク・ナムジョンの作品が理解出来た。1970年頃彼は貧乏まっただ中だったと思う。スタッテンアイランド行きのフェリーをフルクサスグループが一晩借り切り、皆の作品発表があった中で、9個の光はつくが映像の出ない、拾ってきたらしい壊れたテレビを上向きに床に並べ植木を間に置き、彼自身は9個のテレビのブラウン管の上に寝ころがり、体をのたうたせて何んとグループショーの終わりまで3時間ぐらいだろう、大変な辛抱強さだ。それ以上に頭がおかしくなったのかと疑わせるほど不思議な、解けの解らない出来事だった。

 10数年後彼の大個展がホイットニー美術館であり、中でも、だるま大師の掛け軸に穴をあけ、小型テレビをはめ込み「ティービー仏陀」と題した作品を見た時すべての謎が解けた気がした。彼、パイクはテレビをただの光る箱として位置付けたのだ。

Nam June Pike ・ Video Buddha,1981

©Solomon R. Guggenheim Museum

 内容、すなはち、ドラマだとか、映像の作る色色のイメージをすべて無視し、ニュース番組も星条旗も一緒くたで流すのだ。それらはすべて同価値で光る箱以上に意味を持たせない。

 ジョン・ケージが地上に存在する音、下駄の音からジェット機の爆音も含めすべてを音楽であるとしたのと同じで、パイクにとっては、お月様でもテレビに見えるのである。

 彼らに共通するカリスマ性、教祖的説得力の強さ影響力の大きさは、我々いやと云う程見せつけられているから。しかし誰もが教祖になれるわけではない。教祖をしたう100人のお弟子の一人で充分ではないか。弟子にも一人一人現実がある。

 これを踏まえてやれば何んでもない。家が煎餅屋だったら売物の煎餅を画廊に敷き詰めて何か出来ると4畳半、下宿の小部屋しかなければそこからだけの発想があるはづ。

 要は感動的人間であればアートは生まれる。血を腹いっぱい吸った蚊を見て、さぞ旨かったろうと涙を流す人間がいたら、それはアーティストにとって才能として使える。

 ぼく篠原有司男の制作の秘訣は、感動を自分で演出出来るところにある。ぼくは感動のセールスマンと呼んでいる。ただしセールスするぼくのアート作品は半分しか責任が持てない。あとは観る側に任せてしまう。その反応が又楽しみだ。

 それが他力本願アートの本音である。

 

 

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