リン・ヤマモト 「再び輝いて展」とインタビュー
リン・ヤマモトの展覧会Resplendid「再び輝かしく」はソーホーのP•P•O•Wギャラリーで11月17日から2002年1月19日まで開催された。
Respledent
2001
Lynne Yamamoto
リン・ヤマモトのインスタレーション全景はすっきりと美しい。広々とした部屋の壁3面はうっすらと銀色で、その壁に沿ってたくさんの蝶が地面から舞い上がっているような光景。部屋の中央にはガラスの塔が5つ並んでいる。近づいてみると蝶のように見えたのは桜の花の切り抜きと光がつくった影だった。桜の花一つ一つの中央には青年の顔がある。中央のガラス塔は指先のような丸みを持ちながら先は鋭角に尖っていて、桜の花が吹き付けガラスの手法で描かれている。桜の花と青年、尖ったガラスの塔全てが美しく繊細で壊れてしまいそうだ。
リンにこの展覧会についていろいろ聞いてみた。
秀島:展覧会のタイトルにはどうしてResplendid「輝かしく」という言葉を選んだのですか?
リン:この「輝かしく」という言葉は特攻隊の兵士たちが国のために自分を犠牲にする決意をしたとき、または空から落ちる(攻撃する)瞬間を表現するのに使われていた言葉でした。特攻隊の兵士達が家族や友達に宛てた手紙を集めた本の中で見ました。「輝かしく」または「立派な」というような言葉がよく使われていました。例えば、「只今私は輝かしく死をむかえる機会を与えられた。」というようなセリフがありました。兵士たちは運命をこのような形容詞を使って説明していました。
あまりに同じ単語が何度も使われていた為に、兵士たちはそう思い込まされているような印象を受けました。「洗脳」では言い過ぎかもしれませんが。私にはそう感じられました。だから彼ら自身の文章にも同じ単語を使うようになったのではないかと思います。
秀島:どうして第二次世界大戦をテーマに選んだのですか?
リン:それにはたくさんの理由があります。私は今までに母方の祖母についてのインスタレーション作品をたくさん作ってきました。彼女は真珠湾が襲撃された翌年に自殺しました。わたしにとってはそれが第二次世界大戦との一番肝心なつながりです。大戦は他の日系アメリカ人にとってそれぞれ別の理由で重大な事件です。第二の理由として、私が奨学金をもらって日本を訪れた際に、ある大学院生がノーマン・フィールド(Norman Field)のIn the Realm of the Dying Emperor 「死にゆく天皇の国で」というとてもおもしろい本を紹介してくれました。その本では、本島ひとし元長崎市長の話が紹介されています。市長はインタビューの回答の中で「天皇に戦争責任がある」、という発言をしました。私はそれまでに天皇や戦争責任について考えたことがありませんでした。この発言後、市長にはたくさんの脅迫状を送りつけられた以外に、7000通以上の市長の意見に賛同する内容の手紙が送られました。驚くべき出来事だったと思います。私はこれらの手紙にとても感動しました。それまで誰も戦後についての意見、例えば天皇が戦争のシンボルから平和のシンボルへと変わったこと、天皇が戦争責任を一切認めなかったこと、またマッカーサーがそれを一切追及しなかったこと、などについて発言できないでいた印象を受けたからです。
このようなことをきっかけに戦争に興味を持つようになりました。わたしが子供の頃、日本の立場から見た戦争について、その状況について、その複雑さなど全く知りませんでした。だから余計興味を持ったのかもしれません。
わたしが子供の頃、誰もが確実にパールハーバーについて、広島について知っていました。でも東京などがどれだけ破壊されていたか知りませんでした。日本人がどんな戦争体験をしたのかあまり知らなかったのでしょうね。
秀島:ハワイに住んでいた日系アメリカ人の戦争体験はどうだったか説明していただけますか?
そうですね、わたしの両親は戦争についてほとんど一切語りませんでしたね。わたしが訊ねるとパールハーバーが爆撃後の人々のヒステリックな状況を話してくれました。以前より戦争を理解した今となって、両親はとても悲しかったんだろうと分かってきました。日本や天皇に関わる一切のものを埋めるか燃やすかしなければならなかったのですから。それに両親の知り合いでも強制的に収容された人達がいました。両親は収容されなかったのですが。ハワイでは日本人、日系人を合わせると全人口の3分の1にもなりますから、全員は収容できなかったのです。(アメリカ)本土の西海岸などとは違って。
秀島:確か、リンさんの叔父さんは戦争へ行ったのですよね。
ええ、442隊だった叔父が二人います。日本とアメリカが戦争下にある状況で日系人であることは大変なことだと思われるでしょうが、わたしの印象では父親の世代からは迷うことなくアイデンティティーはアメリカ人であったようです。それに、わたしの家族があまり差別を受けなかったのは幸運だったと思います。
父の従兄弟は日本で天皇崇拝を教え込まれた後に渡米したので、戦時中は困惑していたようです。そのことを自伝に書いていました。父の従兄弟は日本に生まれて、その後アメリカに移住してアメリカ人のように暮らしていたけれども、日本である程度育った経験から天皇はとても重要な存在であるという考えが頭から離れなかったのでしょう。一方、私の両親は日本で過ごしたことはなかったのです。
興味深いことは母方の家族に比べて、父方の家族にとって戦争はそれほど劇的ではなかったということです。父方の祖母は戦後も日本の親戚と連絡を取り合いましたが、母方の祖母はもう二度と日本へは帰れないと思ったようです。母方の祖母はもう二度と家族に会えないと思ったようです。
家族に戦争について訊ねると、まるで何でもなかったような答え方をする為、自分自身でかれらの状況から想像するしかないようです。時々もしかしたら(家族の体験について)大げさに言っているかもしれないと疑問に思いますが。自分の想像で話しているのですから。
何か不幸があったとき、日常生活をできるだけ持続しようとするものでしょう。
私の父は(戦時中)12歳かそこらでしたので、暗幕のことやたくさん映画を見たことを覚えているようです。それに兄弟が戦争へ行っていたために、新聞を読んで情報を得ていたようです。
秀島:いつお母様のおばあ様について興味を持つようになったのですか?
母は祖母がどうして亡くなったのか自分から話してくれたことはありませんんでした。初めて偶然聞いたときから興味を持ちました。大きな家族の集まりがあったときになんだかのきっかけで話題に上って知りました。母はわたしがとっくに(祖母の死を)知っていたと思っていたようでした。
祖母の一生がどういう風であったか、祖母がどういう人であったか、また母が祖母の死をどのように受け止めたかということにそれ以来大変興味を持つようになりました。
秀島:リンさんはその時何歳だったんですか?
28か29歳だったと思います。
秀島:結構最近のことなんですね。
それまでの作品はそれほど個人的なものではありませんでした。祖母のことを題材にして以来制作にもっと入れ込むようになりました。それに母親や叔母のことをずっとよく知ることができました。
祖母を題材にした作品を実際に作る以前に、少額ですが奨学金をもらい、その一部で母と叔母達(母親の姉妹)を故郷の小さな町に連れて行きました。そこは(オアフ島とは)別の島で、とても小さな島です。私達はそこで他の家族抜きで過ごしました。その時いろいろなことを聞くことができました。語り継ぐ歴史はそれ以来わたしにとってとても重要なものとなっています。大好きですし。
祖母が亡くなったとき、母の一番下の妹は8歳で、母とその叔母は別の島の親戚と住むことになりました。一番上の姉は別の島へやられました。一番下の叔母は、母や上の叔母が記憶していたほどにその頃のこと(祖母が生きていた頃のこと)をよく覚えてませんでした。島に戻ることによってその頃の記憶をたどり、離れて暮らした為にお互いよく知る機会のなかった一番上の姉との時間を過ごせたとこは、とても意味のあることだったと思います。過去を振り返ることが現代のトレンドのようになっていますが、私にとってこの経験は本当に強烈なものだったのです。母や叔母のことを日常の肩書きから離れたところで、たくさんの会話を通じて知ることが出来て本当に良かったと思います。家族の集まりなどでは誰も一番深いところにある気持ちを話すことはなく、関係は表面的なものになりがちです。機会をつくれば特定の人と、特定の会話ができるということも重要な発見でした。人の一生は短いのですから、そういうこともできるわけです。
あの市長に宛てた手紙を集めた本があれほど印象的だったのは、私が日本語を十分に知らない為もあって日本で出会った日本人の印象薄かったということもあります。展覧会のオープニングなどでの出会いは気軽なものでしょう。だからいろいろなこと(人との関係)が表面的に感じられました。日本人の印象をコメントしている訳ではないのですが。でも、その為にあの(市長への)手紙は私が日本人の内側、感情的なところを知る糸口だったのです。お年寄りの人から戦争を体験していない若者、様々な人の意見に触れることができました。多分(アメリカの)報道のためでもあるのですが、日本の首相が毎年敗戦の日に靖国神社を訪れるときなど、日本人は戦争責任についてあまり関心を持っていない印象を受けました。あの本の中で人々が戦争責任に対して様々な考えを持っていることを知るのは感動的でした。アジア諸国の犠牲(日本が犯した罪)について書かれたものは一通くらいしかなかったのですが。
秀島:日本へはなぜ行きたいと思ったのですか?
日本へ行って自分の故郷と感じるものを見つけられるとはおもいませんでした。ハワイがわたしの故郷だからです。日系人だから直感的にわかった日本というのはありました。そのときは嬉しかったです。
日本では戦争中のことをもっと知りたくて行きました。本当に予想していなかったのですが、母方の祖母の親戚に会えました。その家に最終的にたどり着いて中に足を踏み入れたとき、母の従姉妹が写真を取り出してその中に母の写真があったときなどは感動しました。家族のうちでアメリカに渡ったのは祖母だけでした。故郷は山口県、岩国の小さな村でした。
秀島:おばあ様はピクチャーブライド(写真結婚、花嫁)だったのですよね。
はい。日本の祖母と祖父の家族は同じ地域に住んでいました。だから全く見ず知らずではなく、親戚の紹介だったとはおもいますが。祖父が先にハワイに来ていて、祖母が後から呼ばれて来たようです。
秀島:おばあ様の家族は渡米に賛成だったのでしょうか?
もう結婚の年齢に達していましたし、特に反対はしなかったようです。
秀島:この展覧会の感想は?また、第二次世界大戦をテーマにした作品を作る予定でいるのですか?
今回のインスタレーションは大きなプロジェクトの一部でした。でもあの作品を完成させるのは本当に大変でした。同じテーマに今後も取り組んで行きたいと思いますが、完全なインスタレーションを作ることはないと思います。アートで戦争のように複雑な問題を扱うのは本当に難しかったといのが感想です。映画などだったらそのような複雑な問題を取り組めるのではないかと思います。あそこまで複雑な問題を扱い、それをインスタレーションで表現するのは本当に難しくて、そのために焦点をできるだけ特定しようとしました。自分の視点を定めるのも大変難しい作業でした。日本の辛い経験を知った一方で日本の国、軍隊がアジア諸国に対して強いた苦しみも知っていたからです。
この展覧会の焦点は、いかに桜の花が栄光の死のシンボルとして利用されたかということにありました。
日本人の戦争体験を説明しようという気はまったくありませんでした。それはわたしがすべき事ではないような気がします。それに日本人のつらい体験だけに焦点を当てるのは、日本軍がアジアの国々の人に対して犯した罪を考えると、とても難しいこと(無理なこと)だと思います。だから桜の花のシンボルという、本当に特定のことに焦点を当てることにしたのです。
戦争体験のように複雑な課題をアートで扱うのは本当に大変だということがよく分かりました。映画のように課題の複雑さを組み込めるものなら可能なのでしょうが。あれほどまでに複雑なことを扱い、その複雑さをインスタレーションに組み込もうとするのは本当に難しい作業でした。だから出来るだけ焦点を絞ろうとしたのです。また自分の見地を定めるのも困難でした。日本の苦しみが分かる一方で、日本が他の連邦に強いた苦しみも忘れてはならないからです。そんなことで本当に大変でした。
秀島:これからもがんばって下さい。ありがとうございました。
リン・ヤマモトはホノルル(ハワイ)に日系3世として生まれ育った。現在ニューヨークに在住。1989年ニューヨーク・ユニヴァーシティーにてファインアート修士号を取得。P.S.1ナショナルスタジオプログラム(91、92年)、アーバングラス・アーティスト・イン・レジデンス・プログラム(92年)、ホイットニー美術館インディペンデント・スタジオ・プログラムなどに参加しきた。個展はホノルル現代美術館(96年)、P.S.1現代アートセンター(97年)。そのほかロサンジェルス現代美術館、ホイットニー美術館、リード・メトロポリタン・ユニヴァーシティー美術館を始めとする国内外数々の展覧会に参加している。