マーク・フェルドスタイン展:最近作より
Mark Feldstein(1937-2001): Recent Work
10/29~12/7,2002
バーサ&カール・ロイスドルフ・アートギャラリー/ハンターカレッジ
The Bertha and Karl Leudsdorf Art Gallery
Hunter College of the CUNY, West Building
SW corner of 68 St., and Lexington Ave.
時間:火~土,1-6:00pm, 無料
ギャラリー入り口
Photo© S. Yoshida
展覧会場
Photo© S. Yoshida
突然の心臓発作によりマーク・フェルドスタインが亡くなったのは、昨年9月11日テロ事件の約一か月後のことだった。テロ後のニューヨークでは、精神的に落胆する人々への心のケアが話題になる中、周囲に変わりはないかと言ういたわりをむける優しい人で、彼の死には誰もが驚いた。ニューヨーク市立大学(CUNY)の一つ,ハンターカレッジで写真のクラスを担当し、世代を超えて多くの学生に慕われた教授だった。アーティストとしては、ニューヨークをベースに、ヨーロッパでもいくつかの展覧会を行っていた。ハンターのアートギャラリーでは、近年からなくなる直前まで(1999年から2001年まで)の作品が展示された。
展覧会場
Photo© S. Yoshida
フェルドスタイン初期の作品より。
Title Unknown
©Mark Feldstein
彼の初期、70年代の作品は,対象物をまっこうから見つめるような、強い正面性と安定性を感じさせるものが多かった。(初期の作品は、i-Mac にてスライドショーで公開された。)しかし近年の作品は、どれも皆その初期の姿勢をしいて崩そうとする様に断片的で、モチーフのスケール感、質感、そしてまた時間の感覚まで惑わす様な視覚的トリックを介入させている。けれどもそれらは、決してデジタル処理によるものではなく、すべてがどこかに実在した物や人々の片鱗だ。常に当たり前の様に見えている物と見ることへの挑戦、そのためのメディアが、フェルドスタインにとっての写真だった。
Title Unknown
©Mark Feldstein
大判のデジタルカラー写真が注目を浴びる近年、彼は徹低してモノクロの中判アナログ写真にこだわるが、デジタルに頼らない写真でどこまで自身の写真を変化させる事ができるか,それが彼の課題だったようだ。彼が選んだ方法論は,画家が筆を変えるように、カメラの機種を積極的にかえること。それぞれのカメラにはそれぞれの特長がある。それを周知した上で、どこまで自身の作品に引き寄せられるか、これが彼の一貫した写真への姿勢であった。経済的な理由から、使い込んだカメラを売ることも多々あり、依然手放したカメラがどうしても欲しくてまた買い戻したエピソードもある。こだわりがないのではなく、あくまでも自身に変化を持ち込む事が目的だった。最近の取り組みは、パノラマカメラ。シャターを切ると同時に180度に移動するレンズは、時間のずれを生む。そのずれを利用し、わざと画面をゆがめた写真には、彼の遊び心も見えかくれする。
Title Unknown
©Mark Feldstein
Title Unknown
©Mark Feldstein
ギャラリーでは、二幅対の作品も公開された。例えば口を開けた赤ん坊の写真と牙をむき出した大写しの犬の口元の併置。二対という形体は、相反する概念を喚起する様に、作品自身も対の要素を示唆する。フォークが突き立った洋梨,そして食材のアヒルの屍の対。展覧会カタログでエッセイを寄せた美術史家のエレン・ハンディ(Ellen
Handy)は、その中に生と死のテーマをとらえた。それは人の一生のテーマでもありながら決して生きては把握できないもの。フェルドスタインの死は私達にそれを語りかけているようでもある。
写真とは過去の時間と現在を結ぶもの、といったのはロラン・バルトだった。たしかに記録性と言う写真の機能は、先立った時間を示唆し,私たちが目にするイメージが全て過去の物であることを認識させる。その概念は、フェルドスタインの一周忌にあたったこの展覧会にまさにあてはまるように思えるが、メランコリックな解釈は決して彼の意向ではなかったろう。一つの物質的な喪失は、全ての喪失ではないはず。ギャラリーには、彼自身の目の記録、存在の記録がたしかに残されたのだから。
(Yoko Yamazaki)
展覧会場
Photo© S. Yoshida